1750年(寛延3)年
美濃国武儀郡高野村(現岐阜県関市武芸川町高野)の小作人、井藤甚六の子として生まれる。
1760(宝暦10)年 11才
上有知(現美濃国)清泰寺の空印円虚の下で得度。
1768(明和5)年 19才
春、行脚の途につき武州永田(現横浜市南区永田町)の東輝庵(現在は法林寺に併合)の月船禅慧に参じ修業す。
1781(天明元)年32才
6月、月船禅慧遷化、年80才。
東輝庵を辞し、諸国を行脚。再び東輝庵に帰り、物先海旭、誠拙周樗に参禅工夫に努む。この間、鎌倉円覚寺を初め、諸方の僧堂に歴参する。
1787年(天明7)年 38才
春、博多に下り、聖福寺第百二十二世盤谷紹適に相見す。4月24日、仙厓和尚御国住居願を藩庁に提出す。
1789(寛政元)年 40才
聖福寺盤谷和尚の認めるところとなり、その後薫を慫慂される。機語を相契い聖福寺開祖千光国師(栄西)より百二十三世の法燈を嗣ぐ。
7月5日、同寺入院、栄西の開山忌に拈香文を作る。
1790(寛政2)年 41才
7月頃、妙心寺第一座に転位のため上京、8月、転位垂示式を挙ぐ。
1798(寛政2)年 41才
1月、聖福寺開基源頼朝六百年忌を行う。本山妙心寺より瑞世の儀の勧請を受ける。7月、盤谷七回忌に際し、拈香文を作る。
1800年(寛政12)年 51才
初秋、聖福寺僧堂を再興する。
1804(文化元)年 55才
4月、本山妙心寺より再三にわたる瑞世の儀の勧請断り難く、使僧を登らせて、居成瑞世の儀を行う。
1805(文化2)年 56才
4月、信州諏訪慈雲寺徒弟、湛元等夷聖福寺に掛錫する。
1811(文化8)年 62才
10月朔日、湛元等夷へ法席を譲り、寺内(現聖福寺仙厓堂)へ退居する。
1812(文化9)年 63才
元旦、幻住庵境内の虚白院へ隠栖する。隠栖中、僧俗、貴賤より敬慕を受く。
1813(文化10)年 64才
12月、『百堂三書』を著す。
1814(文化11)年 65才
7月5日、開山栄西の六百年忌をむかえる。
1817(文化14)年 68才
7月23日、漁民定介より博多海岸砂中に拾得の観音大子小金像を受納、亡き父母の冥福のため厨子に納めて安置する。
1823(文政6)年 74才
8月、美濃清泰寺における「大慧書」会に掛錫する。
1825(文政8)年 76才
春、上洛する。
1829(文政12)年 80才
3月17日『夢遊東奥記』を草する。
1830(文政13・天保元)年 81才
3月17日『三徳宝図説並序』を著す。
1832(天保3)年 83才
初秋、虚白院庵側に「絶筆 墨染の裾に湊に筆舎て書にて愧をさらす波風」の碑を建てる。
1836(天保7)年 87才
3月、湛元等夷、藩庁の怒りにふれ退任。仙厓は二百二十五世の住職として再び聖福寺を薫す。
1837(天保8)年 88才
4月、湛元等夷、大島へ流謫される。
9月、発病、床につく。10月7日、湛然として遷化。
遺偈「來時知來處 法時知去處 不徹手懸厓 雲深不知處」
1838(天保9)年
10月7日。一周忌法要。
12月15日、龍巖禅初第百二十六世住職となる。
1841(天保12)年
3月26日、仁孝天皇より、「普門円通禅師」の禅称号を下賜される。